画像とテキストの間で仏と私は無限に遠ざかる

28 March 2010 posted by puis sang-soo

2010年3月23日に  京都の仏教寺院を巡り、仏像やお堂や庭園を見て回る。

都五山の次は、京都十刹のうちのいくつかの寺を巡ろうかと頭の中で漠然と考えていたのですが、軽く調査する時間もないまま京都めぐり予定日が来てしまったので、この度は、三十三間堂――哲学の道――銀閣寺――広隆寺の順でまわってみることに付焼刃的ですが、決めました。その決定を下すのに、とりたてて何らかの必然性があったというわけではなく、たまたまこないだ見た京都テレビの番組で、哲学の道が映しだされていたのと、偶然古本屋で手に取った仏像のガイド本に書かれてあったのと、ウィキペディアの「哲学の道」ページの「周囲の名所」の項目に「銀閣寺」がのっていたというように、さまざまなメディアのなかを流れている情報の一端を恣意的に切り出して、そして、時間と空間とお金の制約という条件の中でつなげたら、こういった連なりがとりあえずできたというだけで、その他に強い動機や目的があったというわけではありません。もっとも、その仏像ガイド本によってこの歳になってやっと各種の仏像の違いを認識しだしたために、仏のなかでもとりわけ薬師如来は信者を内在的に生かす、つまりは、信者の現世利益を願っている仏である、しかも一切衆生の病癒の願もたてている仏であることを知り、私の身体的病から出発して、薬師如来の前に参って、病気平癒の祈願を捧げるという擬態を演じる、そんな弱い目的あるいは弱い理由があって、この寺めぐりの最後に広隆寺をもてきたことを付け足さないというわけにはいかないのですが……。

ちなみに私の寺への現在の興味は、まず第一に庭園で、次に建築物(お堂、門、塔など)であり、最後に仏像です(仏僧の書とか、墨絵や、あるいは茶器などを除いて、大雑把に言えば)。精神性を強調する仏陀の教え的な言葉の物語内容よりもむしろ、簡素な、平面的な、そして静かなというか、または意図と偶然性のあいだのあいまいな地点にあるというか、それとも必然と偶然の二項対立を解体してしまうというか、それらよりももっと、視点の取り方によって一方では洗練された意図が感じられ、他方では野蛮な偶然に見えてしまう、そうした諸々の物の配置の仕方の技術形式の網の目の曲線のほうに関心があるわけです。その物の配置が、それを眺めるものの位置によって、無限の観念と類似しているとか、あるいはある区画は無限と対応しており、別の区画は有限と対応しているとして、両者の差異性と同一性を確定し、両者が比較できるといったことは、この際どちらでもよくて、意図と偶然を覆っていた無限という観念が現在ではどれほど枯渇してきているのかを測定することが重要なのだということは、ひとにはあまり知られていません。とはいいながら、この観光の翌日に実家の近くの曹洞宗の小さな寺で行われた、彼岸の法要に組み込まれた父の27回忌で、僧‐オヤジの退屈な法話を聞き、母が焼香するのを傍観した後で、私は道元の『正法眼蔵』を、釈迦のオリジナルな言葉をすっとばして読まなければならない、と考えたりもするのでした。

蓮華王院三十三間堂

9:30出発――11:00JR京都駅到着――11:15三十三間堂到着――12:30京阪七条駅到着 

蓮華王院三十三間堂

持ち物リスト

財布
携帯電話
デジカメ
iPod shuffle (2nd generation) – Serial No: 4H8195BW1ZK
ゲルインクペン
B5ノート(罫線なし)
仏像ガイドブック
ミシェル・フーコー『言葉と物』
弁当

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地図は持たずに、ましてGISも利用せずに、頭に入っているおよその「地図」を参照して、京都駅から徒歩で三十三間堂へと向かう、市街地を碁盤の目状に刻む大通り、七条通に沿って行くので分かりやすい。拝観料を支払い、まずは庭を、池を覗く、とお堂ほどのシンメトリーは感じとられず、池の縁はランダムに曲がりくねり、その側の植物に囲まれた小道も非数学的なカーブを描くものの、自然を模倣しているようでいて、不自然な木々の配置、四季折々の花がそこでは同時に見られる。

靴を脱いでお堂の中に入ると、撮影禁止の太い文字が立てられており、観音菩薩や神将たちの姿を撮られなくて残念に思う。三十三間堂のなかの配置については、一番前の列に本尊を守護する24体の神将たちが並び、その両端には風神・雷神がひかえ、その後ろの何列かの段に左右500体ずつの神将たちより少し小さいくらいの千手観音が置かれ、中央には巨大な中尊の千手観音が一体座しており、その四方を四天王が囲んでいて、その一体の大観音+千体の小観音で本尊を構成している。外の光は堂の正面の扉を少しずつ開けて取り込んでいて、後ろに行けば行くほど観音像の顔の識別は光が届いていないのか、単にこちらの視力が弱すぎるのか、困難になっていく。

神将たちの眼は水晶をはめ込む玉眼でできており、そのおかげでリアルさが出ているかというと、たしかにそうで、筋肉描写がうまくできている仏像は今にも動き出しそうな感がないわけではなかった、という点ではどこぞの静かなそしてシンプルな釈迦如来像と神将たちは対照をなしている。一方、千体の千手観音立像は漆箔で豪華に表面を飾られ凝った装身具も身につけ体から突き出た40本の手はそれぞれ仏教によって意味づけられたアイテムをもっていて、リアルさよりも仏像が仏像自身に再帰的に関係するかのように現実性は遠ざけられている。

私の注意をひきつけたのは、まずもってそのような仏教の意味体系、そしてその解読ではなくて、とりあえず選び出された2体の観音像の間の差異なのだけれど、実はすぐに私はそのような形象の比較を放棄してしまう。もちろん誰にでも分かる程度のその二人の間の顔の違いくらいは識別できるし、輪光や持物の類似性も知覚できる。ところが、少し視線を全体あるいは全体と個体の中間付近に移動すると、軽い眩暈がおき、そのあと小さい笑いがこみ上げる。観音像の顔の一つひとつはそれぞれ相違を刻印しているとしても、その身丈は同じくらいで、細すぎず、かといってふくよかすぎずの中庸の身体は類似を浮き上がらせており、その千体の10列×100体というグリッド上の配列もまたその表(テーブル)にたまさかの歪みも生じさせず、さらに指数関数的に類似性を際立たせるばかりなのだけれど、そこに先ほど括弧に入れたばかりの意味論的文脈の括弧を取り外して、それを再導入してやると、観音菩薩が三十三の変化身となってこの世に生きとし生きる生物の前に、相手次第によって違う姿をとって救いに駆けつけるということが、差異性ひいては生成変化の強度までも射程におさめており、「語‐統辞」(主語‐述語)の類似性と「意味」(文脈)の差異性がねじれていて、そこで笑いが起き、思考が先鋭化する(はず)、そのとき、三十三間堂の床が抜けて、底なしの無根拠性が露呈され、シンプルで機能主義的な釈迦如来像のモダンさに対して、とりわけ中尊に結晶化された装飾過多で折衷的な観音菩薩像のポストモダンさが強調されるのかもしれない。

本尊の前の廊下を端から端までめまいを感じながら行き着き、折り返しの裏の廊下では、歴史的解説や他の仏像の展示が行われていたのを横目で見やりがら、私はこみあげてくる笑いをかみ殺して足早にお堂の出口へと向かった。そして、この三十三間堂の仏像が映像化され作品化されているのを「杉本博司:時間の終り」展で観たなと気づいたのはもう少し後のことだったけれども。

哲学の道

12:50京阪神宮丸太町到着――13:05岡崎公園――13:30哲学の道

哲学の道
その存在を指示する案内板から付近に公園があることが分かり、平安神宮もチラ見しておきたいなと思いながら歩いていると、ちょうどその神宮前に岡崎公園が広がっていて、そこでラグビーボールでキャッチボールをしている親子、小学生くらいの男の子がボールを持ってヤコブと天使の格闘のように父親にタックルしているのを見ながら、昼食休憩の弁当の梅干の入ったおにぎりと豚肉で野菜を巻いて甘くしてあるのを正しく食べる、辺りを見回してそういえばそこの美術館は6、7年前に京都でケージのレコードを買ったときに来たことあったけかなと思い出して。

201003221326000弁当を包んでベンチから立ち上がり、iPodをまたつけて自販機で買った緑茶を飲みながら大通りを抜けて、大文字山に近づけば近づくほど緑が増え、道が狭まり、そしてついに直線から曲線へと少しずつくねり始める。矢印のついた石の案内表示を見つけてその方向に行くと、桜の花弁が開いており、観光客たちがカメラを構えてそこに群がっていた、そして僕も携帯で最初のパチリ、なぜこんな構図の写メが保存されているのか自分でも覚えていないけど、アップしたのが左のヤツ――つまり、この画像で思い出すところもないし、この文章で画像を説明することもできない(テクストとイマージュはここでも絶え間なくすれ違い続ける、さすが「哲学の道」といったところか……)。

もっとも、私は西田幾多郎の書いたもので読んだことがあるのは、白状して言えば『善の研究』だけしかない、それも私は決してよい読者ではない。なぜなら、近代の超克、二元論を乗り越えようとする企図は分かるが、全然カントの『実践理性批判』のほうがおもしろくて、スピノザの『エチカ』のほうがその形式からしてすでにひきつけられるし、それに比べると『善の研究』は物足りないなぁとしか思えなかったから(日本思想の文脈におけば確かにそれなりに楽しめられるが)。神、自由、不死という理念のうちで、自由だけが唯一実践において道徳法則に縛られているとしても一瞬間だけポジティヴになりうると、途中々々これまでにでてきた命題を復習するように反復しながら徐々に論を展開するやり方(このスタイル、私はツボ)で、カントが語っているところと、あなたは自分が自由だと思っているかもしれないけれど、それは単にあなたの認識が足りていないからであって、あなたはすでに条件付けられており、決定されていると、幾何の証明の形式にならって厳密たらんとするやり方(アインシュタインの信じる神はスピノザの内在的なそれ)で 、スピノザが言っているところは、両者のすれ違いにもかかわらず私には同等の好ましさがある。

疎水
京都の人びとの生活を潤す琵琶湖疏水の水面に映る空や木々の枝々、花弁の映像が、その空や木々の枝々、花弁の物自体とかたく結びついており、その横を通る人びとの視線を通じてほかの諸事物とほかの諸映像とのあいだで、「小宇宙」の有限性の基盤のもと、あるいは制約の上で「大宇宙」がそれらと無限に絡まりあって連鎖してゆくようにはその風景は哲学者の思考をもう揺さぶらないのかもしれないけれど、あるいはむしろ水面に映るイメージは、まるで地下茎が見えない地下で茎を伸ばし、いくつにも分岐し、絡まりあい芽をつけているかのように、水面で木々の枝々、その先で開いた花弁、そして空を流れる雲ぐもが、水面下の土の堆積や生物の群れと交じり合い、つなぎ合わさって生成を、また別の生成を繰り返し、コードをぶち壊してゆく運動であるならば、その哲学者の思考になんらかのインスピレーションを与えていたであろう蓋然性は高いのだろうけれど、一定の意図の下に計画的に仕切られた碁盤目状の中心地から少し離れた、この市街地と山の境界線の縁、両脇に木々や潅木を携えて水の流れに寄り添ってくねくねと自然に折れ曲がっているこの場所で、あの哲学者が、近代の主体が対象から超出したときに獲得した暴力を消そうとして、その暴力を単純な反作用によってではなく、論理矛盾の判断をこえでた場で主語的主体に抹消線をいれようと躍起になっていた時におそらく、この境界線上で二重化された景色こそが水面に散り行く花弁のように主体が流れ去ってゆくのを肯定してしまう危うさを孕ませていたに違いない。

だから私は必死にデジカメのシャッターを押し、画素数がやたらに増えて、肉眼では風景に埋没しているがいつの間にかフレームのなかに入り込んだ人たちをコンピュータ画面で再生させたときその固有存在を浮き上がらせて、発せられた無数のつぶやきの無意味さの肯定を確認できるよう、技術を主体消去とは逆の別の目的のために転用する。

銀閣寺 

14:00銀閣寺到着――15:30今出川駅到着

銀閣寺

両側をお土産などを売る商店に挟まれた狭くて少し急な坂道になっている道を登ってゆくと、南禅寺の山門とは打って変わってひじょうに小さなそして質素な総門がたっていた。それをくぐって右側の中門を目指す間の参道の両側はわざとらしく西欧風にまっすぐに人工的に刈り込まれた植木の生垣でできていて、どこぞの高層建築の壁の模倣かとでもツッコミをはさみたくなるような、モダンですねという感じがする。

悲しいかな、予算と時間の都合上本堂に入り、東求堂を見物することはできず、池の間を通り山を登り、そして銀閣の顔を拝見するだけに。本堂の前の位置(ポイント1)に立って、銀沙灘、向月台そして銀閣と眺めるのが、自然の大きな海、自然の大きな山、そしてそれらよりももっと大きい銀閣、銀閣はなんて大きいんだ、偉大なんだという見立てで錯覚に陥ることができて、金閣のようにあからさまに「私を見て」風ではないにしても、控えめな顔して若干の自己顕示があるのねというわけで、しょうがないから「いいよ、銀閣、いい表情してるよ」とおだててポイント1から撮影したのが右の写真、それでも銀沙灘がきになって銀閣の頭が切れている……。金閣が山に背を向けているのに対して、銀閣は山と向き合っており、前者がその山の威を借りて大衆迎合的であるとすれば、後者は山と対峙することによって己の内部を問い直す、内部志向的で、銀閣の堅実さは伝わってくる。

銀閣寺

私の関心は断然銀閣よりも顔が消えてなくなる銀沙灘のほうにあって、この砂の濃淡で波紋を表現しているにしても、素朴な波の描写ではなく、その表象がかつて親密に絡まりあっていたような対象と切断されて、表現が建築的な幾何学的モデルによって制御され、かつその縁において固有の曲線によって他領域と接しているのが、コントロールされながらも開放的でさえあるような印象を受ける。ただ、南禅寺の庭などと比べると、銀沙灘の面積は広く、その開放的な感覚が拡散的なほうへとリミットをこえてしまうような、どこか表現形式とそれを支える支持体の不釣合いを思わないわけではない。0/1の組合せは今や無限に深く折り畳むことができるのだから、スペースは小さくして、そこでさらに極小に刻み込んでゆけば、そのほうが無限の観念との対応は、人間の表情をとどめた千体仏よりもはるかに近似するのではなかろうか。とはいえ、砂が平面状に敷き詰められてそれを見下ろすのではなく、立体的に盛られて、崩壊する寸前まで高さがあり、ぎりぎりの平衡にハラハラするわけではないにしても(向月台のほうがその感はある)、単なる精神の優位による物質支配というよりも、砂の生のままの物質感が滲み出されていて、南禅寺の庭の瞑想感とは違う別のマテリアルとの交通回路を開いているようにも見える。

その銀沙灘の脇を通って、そして池の間を通って、木々が立ち並ぶ山を少し登り銀閣寺が見晴らせる展望台にまであがることになる。ここで私は少し奇妙な感情にとらわれる、というのも、そこでいったん忘れていた YouTube で配信されていた誰とも知らない人が撮ったビデオの映像を不意に想起して、人工的な都市の生活サイクルのなかでその統御された林を、多分に制限されたビデオ映像で見て感じた懐かしいというよりも確実に都市空間とは違う異空間の別っぽさが、実際に自分の眼で見てみるといたって普通の印象しか受けずにビデオカメラの映像と自分の眼の映像とのギャップに少し慌てふためき、これはもしかして「自然からの完全な疎外」なのか、自分の経験のリアル感のなさとビデオの経験のリアル感ありがごちゃ混ぜになる。展望台は素通りして降りてきてその降りてきた道と池を囲む道がつながる辺り(ポイント2)から、銀閣ちゃんの斜め顔を見ることのできる角度でここでまたゼロ・ガラス、ゼロ・鉄鋼の銀閣の撮影会、一階は書院造で、二階は桟唐戸 Chinese sliding door のついた唐様仏殿様式 Chinese temple style らしいけれど、貧乏で銀ちゃんと親しくない私にはその内部構造までは公開されず……。

銀閣寺は30分くらいできりあげて、そこから京大と同志社大の前を通る大通りを今出川駅まで歩いた。思ったよりか距離があったらしく、だんだんと時間が間に合うのか心配になってきたり、足もどんどん疲労してきたのを感じたりもし始めたけれど、5、6年前に同志社の知り合いの年上男性に真夏に京都駅から金閣寺まで往復歩かされたのを思い起こせば、この程度のことは大丈夫と小走りになってやっと今出川駅にたどり着いた。

広隆寺

15:50太秦天神川駅到着――16:15広隆寺到着――17:00広隆寺出発――18:15嵐山駅到着――19:30帰宅

広隆寺

道の間違いはこれまで哲学の道にあたるまでの一本だけだったのに、ここにきて反対方向に歩いてしまい(駅の周辺地図はみておいたにもかかわらず)、バスの行き先の表示を目にしてやっとそれに気づいて(もう数100メートルはきてしまっていた)急いで引き返し、もう一度駅の周辺地図を確認して今度は逆の方面を行ったら、少ししてからようやく「あ(/「あっ」)」「うん(/「うむ」)」(像が出迎えてくれる南大門のたつ広隆寺に着く。

真っ先に霊宝殿へと向かい、12神将と脇侍にはさまれた薬師如来像を見ようとしたら、箱が立っていて扉は閉め切られお札が貼られて封印されていた、とアンチ・クライマックスの展開、何やら秘仏といわれるものだそうで、開扉は11月22日だけだそうで。もうこんなんやったら治るもんも治らへん、あかんこの先一生健康になられへんわ、と自暴自棄になる間際で思いとどまり、別の仏像へと目線を移す。気になったのはやはり弥勒菩薩半跏思惟像で、たとえば、千手観音像や不動明王像や阿修羅像や、あるいは12神将像、さらには釈迦如来像をも含めて、それらのイメージはだいたい大衆的なイメージへと容易に還元され、大量にコピーされ陳腐化されている感があるけれど、弥勒菩薩の描線はまだアウラをとどめているような気がする。この線を模倣する人があまりいなかったのか、現代への翻案がなされていずに、リアル感のあまりない年代もの感が突出していて――どこに再現の困難さがあるのか私は知らない――そのおかげで独特の化石の神聖さらしきものが出ていたように思う。

他にも三十三間堂の千手観音ほどには洗練され、複雑化していない、それよりもっと前の時代に作られた2メートルをこす木造千手観音像は単純で素朴でもそれなりの迫力があり、聖徳太子の2歳くらいの像など茶目っ気たっぷりの像もあり、霊宝殿の空間は決してひとつの視点によって整序されていずに、空間が波打っており、ここでも少し笑いがこみあげる、そして思考が先鋭化する(はず)。霊宝殿を出て、国宝の桂宮院本堂をたずねてみようとすると、公開は4、5、10、11月の日曜祝日だけらしく、見ることかなわず、太子殿のほうへ。靴を脱いで木造の段をあがってかけられて金網の隙間から薄暗い中を覗きこんでも、夕方で陽が落ちかけていて光があまり届かないのと、私の視力が弱いのとで、何が見えていたのかほとんど覚えていない。

さらに講堂の隙間からも中を覗くが、ここも暗くて少し薄っすらとしか見えない、如何せん覗くという性質上お堂の中にまで入れないわけだから、ぼんやり内部を理解したつもりになるにすぎない。もういっちょペタッとした建物の薬師堂を覗くと今度は見えた、薬師如来像が、あるいは弘法大師なども、はっきりではないけれど。霊宝殿の薬師如来像の代替物となった、この薬師如来像を覗きながら、片手でシャッターを押すのではないにせよ、病気が治りますように、良い医者にめぐりあえますように、などと心から祈るわけではないにせよ、薄闇に包まれた薬師如来像を覗くことができて少し小躍りしたい気持ちに駆られ、貧乏でも節約して医者に通うくらいのお金は捻出して、通院諦めませんとか自分に言い聞かせ、思いを新たにすることができたような、できてないような……。ついでに地蔵堂の地蔵も覗き、ここの地蔵ははっきりとそのまんまるな姿がそこにあるのが分かった、と多神教の神様を崇拝するには、あっちにうろうろこっちにうろうろと行ったり来たりが忙しい、いっそのこと一神教の宗教に……。

帰宅  

嵐山
阪急嵐山駅に向かうのにここでも電車は使わず徒歩でまた移動し、進行方向を行くバスが嵐山行きになっているかどうかを何度も確認しながら、広隆寺前の道をずっと行けば行き当たるだろうという予想のなかで、ときどき心折れてバスに乗りたいという誘惑に駆られながらも、桂川の風景が開けたときの開放感といったら、なかなか。そこで予定通りお土産を買い、職場用には洋菓子と和菓子を組み合わせたものを探して、抹茶ケーキと抹茶チョコを、家用には八つ橋を購入しました。

せっかく京都でリフレッシュしたのに、再開発に失敗している梅田に戻ってきて、なんか暗い気分になったのでした。

                           posted by puis sang-soo
last update:14 April 2010

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