8 December 2006 posted by puis sang-soo
今月は映画を4本見る。
15日にフィルムセンターで溝口健二の『雨月物語』を観て、その足で有楽町から帰ろうと思って歩いていると、東京駅まで来てしまい、コンビニに立ち寄り、「ぴあ」をチェックしながら、『エンロン』が面白そうだったので、山手線で渋谷に向かい、7時の回に間に合わそうとして、ハチ公前の出口から、走って映画館へと行くが、タイム・オヴァーで、最終の回で観ることとなった。それまでの間、とりあえず、富士そばで、胃に食物をねじ込み(そばはうまい!)、西口前の東急(その前の横断歩道を渡るとき、いっしょに赤信号を待っていた、母親に連れられて、あめをなめている、男のこどもちゃんがかわいかった)裏側付近にある、オシャレな古本屋で、探してる詩集か、ジャズ本がないか見て、それから、109の右側の通りを登ってちょうどマックに出会ったので、その地下でミルクティー片手に、セリーヌの『夜の果てへの旅』の日本語訳を読みながら上映開始を待った。
で、昨日、雨の中傘差しつつもずぶぬれになりながら(おかげで、今日の夢は悪夢となってしまった。公園の公共トイレに寄って用を済ませて、さて、みんなのところに戻ろうとすると、公園の出口と向こう側の間に濁流が流れていて、ジャンプすれば、何とか飛び越えられるであろう幅だったけれど、自分のジャンプ力にあまり自信もないせいか、水が通りすぎるのを待つことに決めたら、水の勢いは弱まるどころか、どんどん量が増えてきて、公園にまでせり上がって来る。で、小高いところに走って逃げるが、水嵩はどんどん高まってきて、このまま水に飲まれると、泳ぐこともできないだろうから、死ぬなと思いつつ、走ってもっと高いところに逃げると、一本だけ木が立っていて、よじ登って、もうっちょっとの間だけ生き延びれるかと上を目指そうとしていると眼が覚めた。こどものころにこんな夢を見たら、その後、確実に、安心を得ようとして、母親の布団の中にもぐりこんでいたであろう。)、また、フィルムセンターに行って『近松物語』を観る。上映後、この映画に詳しい映画監督の方のトークがあって、なるほどなと思いつつ、今見た映画を反芻しながら、銀座一丁目の地下鉄駅から帰る。で、池袋の西口のマックで、本読みながら、雨宿りするが、閉店時間になっても(もう一つの方は24時間営業だけれど)、雨はやまず、結局その激しさをのろいながら、帰ってくる。(寝るころにはすっかりあがっていて、なんとも恨めしかった。)
そして今日、東中野のポレポレへと『エドワード・サイード』を観に、東京に出てきてから、かれこれ5台目か6台目の自転車で、さっき、中央図書館で借りてきたボニー・ピンクの『レット・ゴー』を聞きながら、山手通りをひたすら上昇する。映画館に着くと、上映開始を待って、カウンター前のベンチで大岡昇平の『野火』を読む。がっつりリアリズム小説かと思うと、まぁ、律義に描写してくれてもいますが、ときどき、ストレンジャーの観念がほとばしって、境界の彷徨い具合がなかなか面白い。
『エドワード・サイード』はというと、これも、境界線上のストレンジャーの運動の記憶を辿るというものであって、当の本人が動いている映像がふんだんに使われていると思いきや、子供のころの映像しか映らず、私たちの知るサイードは写真としてしか登場しなかった。サイードの生家、墓地、レバノンにある別荘、コロンビア大学の研究室、難民キャンプの入り組んだ路地、軍の検問、イスラエルのキブツ、パレスチナ、アラブ側とイスラエル、ユダヤ側の場所が合併した街、イスラエルが建国される前までは、アラブ人もユダヤ人も、半々で暮らしていたが、建国後には、アラブ人が減り、ユダヤ人口が増えた場所、子供たちが日陰に腰掛ける建築中の分離の壁、様々な場所へとカメラは運ばれてゆく。そしてその映像は土地から切り離された、なにも、プロレタリアと同じ仕方で、そうされるのではなく、宗教や民族などによって、根扱ぎにされて、流動の中へと投げ込まれた人間存在へと丹念に近づいてゆく、サイードの本に刻まれた言葉を背景にしつつ。
溝口健二の映画はこのような貨幣によってもたらされる悲劇を徹底的に思考した映画だといえるかもしれない。小津映画が家という場所にこだわったとすれば、溝口映画は貨幣という人間の関係性を対象にしている。貨幣を媒介にして、上昇するものもいれば、下降するものもいる。農村で自給自足していれば、小さな幸せは永遠に家と村のものであったかもしれない。しかし、市場に人は引き寄せられ、あるいは、武士の暴力のトバッチリを受けて、収奪にあい(この暴力による収奪が蓄積され国家は形成される)、共同体の平穏は乱されるであろう。愛も実体から遊離し、本当のもとにたどり着いた瞬間その手から滑り落ちる、オルフェウスの物語のように。恩赦があってもよさそうなものの、『三文オペラ』のように。ボニー・ピンクは歌っている、「複雑すぎてうまく愛せない」(‘Trust’)と。
『エンロン』と『雨月物語』は驚くほど似ている。アメリカで第7位にまで登りつめた企業の、不法による没落。レーガンの新自由主義路線、規制緩和、プライヴァタイゼーション(民営化)によって、国家の保護から市場に回された電力エネルギーを売り買いして膨張してゆくエンロン(そのCEOのBBCの訃報記事はこちら)。そして、優秀なトレーダーを雇って、株価をどんどん上昇させてゆく。さらに詐欺まがいの決算方法で株価を吊り上げる。カリフォルニア州に圧力をかけて、わざと停電を起こさせ、電力価格を引き上げる。他人の不幸から利益を生み出す、これは『ザ・コーポレーション』での、9・11後についてのビジネスマンらしき人物の発言にも照応する。金儲けのためなら倫理さえ投げ捨てる発言は、陰口のように蔓延する。ask why=assh*le。このような不正を暴く「フリーランス」のジャーナリストの存在はほんと貴重。
結局、未だに古典派に倣っていえば、価値の源泉は労働なんだから、あるいは、マイケル・ハートが述べているように「労働が依然として富と社会性の源泉であるという事実は、いかなる意味でも否定されるわけではない」(マイケル・ハート/大脇美智子訳「市民社会の衰退」『ネオリベ化する公共圏』(明石書店、2006)72項参照)のだから、その労働に従事する労働者を守らなければ、世界的な経済発展はないでしょう。たまたまばくちにあたったようにして、もうけた金になんて意味がない(もちろん、それによって、莫大な金が転がり込んで、今後一生の労働を免除されるという事態を別にそれほど大上段に否定はしないが)。
たしかに、労働を機械によって置き換え、労働者の力能を減退させ、資本が主人と奴隷の弁証法を「もはやない」に追い込もうとするかもしれないが、そのシェーマからあふれ出た労働者は常にすでに、「にもかかわらず」を反復する(来年の一月下旬から始まる通常国会に、労働基準法「改正」法案が提出されるらしい(asahi.com「残業代ゼロ「導入適当」 労政審」(2006年12月27日22時16分)参照)が、これは何も年収例えば400万円以上のホワイト・カラーだけの問題ではない。おそらく、格差を利用して、多少年収上の部分から導入して、それから、それを既成事実にしたうえで、さらに低収入の方へと労働時間の拡大を、みろ、ホワイト・カラーだってこれだけ働いているのだ、と脅しながら、歯止めなくズラしてくるだろう。だから、この問題にはフリーターであっても関心を寄せるべき、どうせ残業代でないし、などといってないで。逆に、労働時間7:30分への短縮を要求すべきだと個人的には考えるが)。
ビデオでは一本『シリアナ』を観る。これはドキュメンタリーではなく、全くのフィクションであるが、石油の、資源の所有、確保をめぐって、アメリカの多国籍企業とアメリカ政府の軍産複合体が他国(イラン?イラク?)に猛威を振るう姿がなまなましい(「仮想敵国」として中国)。国家が暴力を振るう一方で、多国籍企業は膨張し、独占へとひた走る。それに呼応するかのように、失業にあえぎ、失望に打ちのめされた、労働者もまた、暴力という最後の手段に訴える。その結果は、果てしのない資源の浪費である。この構造を変えないかぎり地球は摩滅する一方であろう。
posted by puis sang-soo
last update date:22 January 2007